「1+1」についての話




「ベーラははさみを忘れている」というフレーズが 頭から離れない。


 少なくとも一週間くらい前から そのフレーズがずっと頭の中をぐるぐる。
 そういうことって あるよね。


 
 この言葉は 大学時代の恩師である武田潔教授が
 ある講義のなかで教えて下さったことだったと記憶している。
 現宮崎県知事の東国原英夫氏も 同じ教室にいたんだよね。たしか。


 東国原氏は 当時 いつもウィンドブレーカーみたいなのを着て
 たまに頭にタオル巻いたりして よく大学に現れてたから すごく親近感というか

 「有名人なのに 気取ってなくて素敵」と思ったことを よく覚えてる。
 走ってたのかな。



 もう 5年以上も前の話。 6〜7年前かな。 



 ところで話はもとに戻って エイゼンシュテインのこの言葉
 「ベーラははさみを忘れている」。


 それが今 学生時代以来 数年ぶりに映画を自作することに
 もう一度関わってみようとしている
 っていう個人的な局面で、当時とはまた違った輝きをもって蘇ってきた。
 そういうことって あるよね。  ジャメビュ的ななにか。



 で 出典がうろ覚えだったので ドットコムしてみたわけです。

 すると いまの僕にとって かなりタイムリーに
 素晴らしいヒントをくれる文章に出遭ったのでした。

 こういうことって あるもんなんだなあ。と



 余談ですが 武田先生の講義で ロラン・バルト記号論について
 とてもとても熱く語った回があって(教授は本来 かなり柔和な御仁)
 その時のことを 今でもよく 思い出します。



 いやしかし 出来のわるい教え子ですみません 先生。


タルコフスキー岩尾先生全文−3
http://www.geocities.jp/hnoda0321/2maimeNo9page-Tarukofusuki-6.htm


たとえばエイゼンシュテインは論文「ベーラははさみを忘れている」(1926)のなかで、ベーラ・バラージュのカメラマン重視は「ワン・ショットの画面そのものの<スター化>」に陥ると批判して、次のように述べる。「映画の本質はワン・ショットの画面の中にではなく、画面の相互作用の中に探求されなければならない。バラージュは対物レンズ以外の、もう一つの決定的な<生産手段>―はさみを忘れている。映画における表現効果は―対比の結果である」(全集6巻 39頁キネマ旬報社)。またエイゼンシュテインは劇映画技法を否定してニュース映画のような「一台のカメラの急速な動き」が見届けたものだけに依拠するジガ・ヴェルトフの「映画眼キノグラース」をも批判して、観客に強く訴えかける芸術創出のために、モンタージュを駆使して「映画鉄拳キノクラーク」を振るわねばならないと言う(24−27頁)
 これに対してタルコフスキーは、「モンタージュは二つの概念を結合し新しい第三の意味を生み出すのだという、いわゆる<モンタージュ映画>の信奉者たちが提唱している理念は、映画の特質と完全に対立している」(B173)と批判する。彼はモンタージュを編集技法に限定して用いる。「モンタージュは時間で充たされたショットを結合するのであって、概念を結合するのではない」からだ。「モンタージュの中でいったい何が結合されるのか。それはショットの中を流れる時間そのものである」。ショットとショットの結合は、それらを通して流れる「時間の圧力」「時間の密度、強度」「変化しつつある時間の錆」によって行われる。「モンタージュは、ショットのなかの時間の圧力を考慮して断片を結合する手段なのだ」(B176)。
 それゆえモンタージュはそれぞれ固有な「監督のエクリチュール(書き方)」を現す。「モンタージュは時間で満たされたショットを結合し、映画という統一的な生きた有機体を構成するのである。その血管のなかでは、さまざまな圧力の時間がリズミカルに脈打ち、映画の生命を保証しているのである」(B173)。

「自分のフィルムを色々のやり方でモンタージュできる監督がいるとしたら、かなり浅薄な監督である。ベルイマンブレッソンフェリーニ、黒澤、アントニオーニのモンタージュならすぐわかる。彼らを取り違えたりすることは決してない。リズムの中に表現された彼らの時間の知覚がつねに不変のものだからだ」(B184)。


出典:タルコフスキー岩尾先生全文−3
    http://www.geocities.jp/hnoda0321/2maimeNo9page-Tarukofusuki-6.htm


この講義録 おもしろくて 勝手に懐かしくなっちゃって
ひさびさにまた大学に行ってみたくなりました。
もぐろかな。





そういえば 武田先生か梅本洋一先生が講義で
『「エクリチュール」というフランス語は「その作家の作家性を象徴する話法」という日本語に
訳してもいいんじゃないか とおっしゃっていた気がする。


他の教授のお言葉だったら ごめんなさい。もの覚えがわるくてすみません。

御二人の共訳の本(エリック・ロメール『美の味わい』)は
ずっとうちの本棚の 一番いいとこにあります。


武田先生の本も。(例えば映画理論講義―映像の理解と探究のために とか)




ところで また脱線しましたが 上に挙げた文章は この講義の最後部で


それよりも前段で岩本龍太郎先生は こういう前振りをしているわけです。


 タルコフスキーの遺産「1+1=1」

 初期の構想では数学教師であったドメニコの廃屋内をカメラがパンしながら写し出した「1+1=1」という謎めいた数式がある。
 これはトニーノ・グェッラが脚本参加したアントニオーニ『赤い砂漠』(1964年cf.A348)に現れる数式だが、タルコフスキーの映画思想を凝縮していると考えられる。


 「1+1=2」という現実的打算の数式や「1+1」が3にも4にもなるという景気の好い発展の数式と異なり、「1+1=1」は貧しく収縮的に受け取られるかもしれないが、そこには「1+1」が「1」というまとまりであること、世界がバラバラに発展して別のものに成り変ってゆく前に一つの世界であらねばならないこと、各人がカプセル化される分断の時代に人間が根底に於いて同一であることが含意されている。


 「1+1」が「3」になればあとは百万人でも動かしかねないだろう。全体の幸福を説く大審問官的言説を拒否してショスタコヴィチは次のように言う。
 「ヒューマニストを信じてはいけない、みなさん、予言者を信じてはいけない、有名人を信じてはいけない。彼らは二束三文で裏切るのだ。


 誠実に自分の仕事を果たしなさい、人々を侮辱せず、助けるように努力しなさい。一気に全人類を救済しようと努めてはいけない。
 まず、せめて一人の人間でも救うように試みなさい。これははるかに困難なことだ。ほかの人を傷つけないようにして一人の人間を助けるということは、たいへんむずかしいことである。信じられないほどむずかしい。それだからこそ全人類を救済したいという誘惑が出現するのである。


 だが、それにもかかわらず、その誘惑に乗ると、必然的に、人類の幸福のためには、少なくとも数億の人間を抹殺しなければならなくなる」(E358)。
 「1+1=1」は、「人類の幸福」を語る虚偽を見てしまった後で、さりとて訴えかけをやめず、そのつどの一人一人に語りかける姿勢を示している。
 「一滴にもう一滴を注いでも大きな一滴になるだけだ。二滴にはならぬ」とドメニコは廃屋の暗がりでボソボソ語る。
 このせりふは「1+1=1」の思想(と同時にタルコフスキーの水への執着)の言換えである。


出典(上と同じ):タルコフスキー岩尾先生全文−3
    http://www.geocities.jp/hnoda0321/2maimeNo9page-Tarukofusuki-6.htm




そして この講義は こう 閉じられるわけです。


 タルコフスキー映画のショット(カット)数は異様に少ない。エイゼンシュテイン『十月』(103分)の3225に比べて、『ストーカー』(161分)は142カットしかない(G143)
 冒頭部の警戒線突破場面に短いカットが集中し、あとは長回しばかりである。『ストーカー』を撮るとき、「映画全体をひとつのショットで撮ったかのようにしたかった」(B287)とタルコフスキーは語る。

 カメラを廻しっぱなしにして、ヒッチコックの『ロープ』(1948)のように上手に接合すれば、技術的に可能なことではある。
 しかし、タルコフスキーの言葉は単に技術の問題を越えて、彼の映画の夢、映画という夢、「1+1=1」という思想を凝縮しているように思われるのである。


出典(上と同じ):タルコフスキー岩尾先生全文−3
    http://www.geocities.jp/hnoda0321/2maimeNo9page-Tarukofusuki-6.htm





なるほど つまり
『「1+1」の数式は 映画の夢 人類幸福の夢の象徴である』
と言ってしまっていいわけか そうか そうかも それええやん というわけで。





実はこのブログの 「1+1」という名前は
このことを背景に決めました・・・というのは真っ赤な嘘で

 
もともと これほどまでには深い考えはなく
というか また別の根拠でつけた名前なんだけど
これ 採用させてもらっちゃおうかな と。



こういうことって あるみたいですね。まったく偶然だけど。




じゃあ そんなわけで これが由来 ということにしよう。決定(仮)。



「1+1=?」ということで はてなで日記をつけています。




*Link

英字幕版 できました。彼がこの作品の監督です。僕は 短髪です。
「字幕がついたら絵本みたいになったね」という 古い友人の感想は 最高にうれしかった。
http://profile.myspace.com/masateru



Eyes on Tibet | ダライ・ラマ畏るべし 内田樹の研究室