わからない


鳥のように自由に 文字通り物事を「鳥瞰」することができたならば いざ知らず
「学び」の道にはある意味宿命的にゲシュタルト崩壊がついて回るのかもしれない。


あの 『漢字を長く眺めるうちに だんだんパーツごとにばらばらの図形であるかのように見えてきて なんだかすごい違和感』みたいになるやつ。本来的には もうちょっと違う広い意味があるらしいけれども。

→ Wikipedia 『ゲシュタルト崩壊』


よくある話。
何か新しいことを覚えようとする時 わからなくなることって ある。
それまでに分かっていたつもりのことまで わからなくなるような。


覚える時だけでなく 新しい何かを創造しようする時にも
当然のことのながら 切実な 産みの苦しみがあって。


「全体が見渡せなくて 予想のきかない困難に次々とぶつかって 頭のなかカオス」
そういう状態に 恥ずかしながら僕なんぞはよくつまずいてしまいます。切実に。
悩ましくて 苦しい。自分の修行の足りなさがうらめしい。


でも そんな時 繰り返し思い起こす言葉が いくつかあります。




1:【分からなくなったとしても それは後退ではない】

                                  (※以下 敬称略)

何かを分かるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない。むしろ知っていたはずのものを未知なるものとして、そのリアリティにおののいてみることが、何かをもう少し深く認識することに繋がる。

たとえば、ここにコップがひとつあるとしよう。あなたはこのコップについて分かっているかもしれない。しかしひとたび「コップをデザインしてください」と言われたらどうだろう。デザインすべき対象としてコップがあなたに示されたとたん、どんなコップにしようかと、あなたはコップについて少し分からなくなる。
(・・・中略・・・)

本書を読んでデザインというものが少し分からなくなったとしても、それは以前よりもデザインに対する認識が後退したわけではない。それはデザインの世界の奥行きに一歩深く入り込んだ証拠なのである。

出典:原研哉『デザインのデザイン』[まえがき]より抜粋

この言葉に 僕は何度救われたことか。つまり なにか新しいことを知ろうとして たとえそこで分からなくなることがあったとしても「大丈夫 それは全然悪いことじゃない 実はそれこそがあなたの成長の証なんだ」「恐れずに とにかく次に進めばいい」ってことを教えてくれているような言葉。包容力。

「学び」とは「作品」とは「表現」とは "行動主義"的な実践の先にしかなく
世界は「やってみなければ わかるはずのないこと」ばかり。
それをひとつひとつ知るということは 新しい地平に立つことなのだということ。


2:【守 破 離】


「守」・・・疑問を持たず、清濁併せ呑み、師の教え(型)を忠実に「体現」出来る様に取得する。
(確実に、「当たり前」のように「体現」出来ねば「守」にあらず)

「破」・・・その「型」を確実に「体現」出来る様になった時、初めてその基本に則して応用し、自分自身のスタイルを模索する期間。
(「型」はどんなに洗練された「完成品」であっても、それをこなす人間のスタイルや資質、若しくは経験に合致するとは限らない。それを踏まえて、自分自身の「型」を模索する時期である。)

「離」・・・その試行錯誤して見えてきた「自分の型」を、経験に基づき肉付けし、若しくは削り磨き上げて、師の「型」から「前進」し、「独自の型」を「創る」段階。
(「前進」せねば「離」にあらず。また、ここは到達点にはあらず)

引用元:「守破離」の「破」と「離」の違い - 教えて!goo
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1229453

*1

技術を体得するプロセスとして あまりにも絶妙ですっきりとして 普遍性と汎用性が高いためか
それぞれに違う世界で あらゆる表現の領域で 実践され応用されている考え方のようです。

守破離とは - はてなダイアリー>キーワード


それは 山本耀司が「非風」という言葉でかつて語ったことであり
そういえば ピナ・バウシュが 踊ってみせていることであり
そして例えば John Cageが"4分33秒"のなかに込めたことなのかもしれない。
それから ゴダールとか。




3:【止揚

止揚(しよう:アウフヘーベン=aufhebenの訳)は、ドイツの哲学者であるヘーゲル弁証法の中で提唱した概念。揚棄(ようき)ともいう。

ドイツ語のaufhebenには、廃棄する・否定するという意味と保存する・高めるという二様の意味があり、ヘーゲルはこの言葉を用いて、弁証法的発展を説明した。つまり、古いものが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古いものが持っている内容のうち、積極的な要素が新しく高い段階として保持される。このように、弁証法では、否定を発展の契機としてとらえており、のちに弁証法唯物論が登場すると、「否定の否定の法則」あるいは「らせん的発展」として、自然や社会、思考の発展の過程で広く作用していると唱えられるようになった。

国語辞典などでは、違った考え方を持ち寄って議論を行い、そこからそれまでの考え方とは異なる新しい考え方を統合させてゆくこと、という説明がなされることがある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』


階段をひとつひとつのぼっていくようにこつこつと努力を積み重ねる過程で
ある時「すこーん」と まるで次元が変わるような異化の体験として 成長が起こる。
ある日の一歩が 気がつけば一万歩分に相当した というような。

まっすぐ前へ 歩いていたつもりが 気がつけば螺旋状の平面を登っていて
いつの間にか ものすごく高いところまできていた とか。

そう解釈しているけれど まだまだ勉強不足なので どうかな。


ただ 個人の認識において そういう現象はあるように感じる。
例えばその瞬間を思い描くだけでも 行動は変わる気がする。


養老孟司「朝(あした)に道を聞かば 夕べに死すとも可なり」という孔子の言葉を引いて示したことも そこに通ずるかもしれない。

朝 それまでに知らなかった「道」を その道を知る誰かに教えを乞うこと=道を聞くことで
夕方には それまでその「道を知らなかった自分」は死に かわりに「道を知った自分」新しい自己として 全く生まれ変わるような変化を遂げることも不可能ではない。「知ること」とは本来そういうことである、という内容を 以前に読んだ記憶がある。原典は失念してしまいましたが。



なんにせよ 先人の知恵の言葉の素晴らしいところは
厳しくも励ましに満ちていることだと思う。

白洲正子白洲次郎の"粋"とか。生き方そのものに しびれるものがある。


歴史の濾過を経た 重みと深みがある。
そういう"しびれるような"大人になりたいもんです。


何とかうまいまとめはないものか と考えていたら こんな記事がありました。

IDEA*IDEA 『アインシュタインの名言いろいろ』
http://www.ideaxidea.com/archives/2008/04/post_446.html

素晴らしい。それそれ そういうこと。読んでもらえればきっと分かります。


自分なりのまとめとしては「『わからなくなる』ということは創造的な苦しみの始まりであり 次の達成の喜びへの始まりでもある つまり修行の一部・発展の一部である」ということにしておきます。敢えて大雑把にします。


なぜなら「答え」のあるものに興味はないから。
良質の「問い」のあるものにしか 価値はない 産み出せないと思う。

誰にも押しつけるつもりはないけど。



しかしそう考えると この延長線上で話したくなることがあります。

SANAA 坂茂 秋田道夫 深澤直人 吉岡徳仁 ナガオカケンメイ

(一貫して敬称略ですみません。尊敬しています。)
のような まさにしびれる活躍をみせる"ちょっと上の世代"の方々の話だとか



黒田硫黄や 小林賢太郎や ライオン的な僕の友人(詳しくは3/16,3/25の記事をご参照のこと)のように
衒学趣味に堕さずもかつ知性的・理性的で 「体現」することに最大の力点を置いている同世代人がいることの話だとか

勇気がこみ上げてきそうな まだまだ話し足りない話はたくさんあるけれど
それを始めるとまた際限なく長くなりそうなので 今回はこの辺でやめておきます。
続きはまた今度。



ところで 僕が世界で一番尊敬しているのは 父です。





Graphic by 1+1 man & woman film. 2008


*Link
きょうの Eyes on Tibet
かなろぐ - 天台宗トップクラス、書写山円井圓教寺大樹執事長が声明を発表

*1:守破離』について 今回改めていろいろと調べてみて分かったことですが もともとの原典には諸説ある言葉らしく。これをWebで調べるのはかなりおもしろかった。
結果として 上記の個人間の質疑応答が一番しっくりくるまとまりがあったので これを転載しました。

言論としてはもともと世阿弥の『風姿花伝』という書物にある「序破急」の概念がもとになっている、という説が有力のようで
また 千利休は茶道の心得として「規矩作法  守り尽くして 破るとも  離るるとても 本(もと)ぞ忘るな」と詠んだそうです。
そののち 茶道江戸千家の流祖 川上不白が書にあらわした とのこと。
しかし たどってみると もとは禅の考え方であるとする説も 武士道からの派生とする説もあるようです。また「もとは剣道」または「もとは合気道」とする説も。
実際のところは判然としませんが 口伝でもこれだけの長い歴史を超える というところが凄い。ひとつの哲学として。


また これら原典のどれと照らしても辻褄が合うように感じられた『お能』という 白洲正子の随筆のなかに『序破急というものは、お能全体をつらぬくひとつのキマリであります。「空間的の型」に対する「時間的の型」ということができると思います。』とあります。この読み物は個人的に破格に興味深かった。
http://www11.ocn.ne.jp/~b-flat/book/onoh/onoh.htm


また 川上不白の原典を引いておくと
>>
・「 守はマモル、破はヤブル、 離はハナルと申候。弟子ニ教ルハ此守と申所計也。弟子守ヲ習盡し能成候へバ自然と自身よりヤブル。
これ上手の段なり、さて、守るにても片輪、破るにても片輪、この二つを離れて名人なり、
前の二つを合して離れてしかも二つを守ること也。」 『不白筆記』(1794年)川上不白


・「 守は下手、破は上手、離は名人。」 『茶話集』川上不白
出典: フリー引用句集『ウィキクォートWikiquote)』
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E4%B8%8D%E7%99%BD
<<

とのこと。


また『序破急』と『守破離』との違いについてはこちら。
なーした日記:「序破急」と「守破離
http://suto3.mo-blog.jp/nashita/2006/05/post_549a.html