百年





        ものをつくる人間の端くれとして思うこと

        「新しい」ということは「いつか古くなる」ということ



        百年劣化しないものをつくるのは

        僕には無理かもしれないけれど

        百年後にもまた  別の意味を持つような

        そんなものをひとつでも つくれたらいい




        そしてそれは  私の娘や息子たち


 
        父や母  祖父母たち  家族のような友人たち

        そして妻が  私を誇りに思ってくれることを目指すのと

        おなじことのように思う




        かっこつけてるわけじゃないよ








        笑



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いくつになってもあまえんぼ






  ひょっとすると「世界で最も カット数の多い映画」という事になるかもしれませんが


  "andante"という作品は 我々 man & woman film.の 2年程前の作品です




   【man & woman film. の作品はだいたいここにあります】
   



  ワンショットの長さと物語性とに価値観を置く思想からすると


  一見 まったく真逆のものと捉えられてしまうかもしれませんが



  実際には そうではなく (本来 企図されているものは そうではなく)



  例えば冒頭の一連のカットには

  「すべては水からはじまる」という意味が込められているように

  「ちゃんと意味のある」約一万のショットで構成されているので


  ベーラもエイゼンシュテイン蓮實重彦先生も多分 怒り出さずに済むはずです


  我々の世代はデジタルですが はさみもそれ以外の事も けして忘れてはいない


  そのかわり 12分の"短編版"では「脳が追いきれない」という現象が起こりやすく

  "長編版" は 1時間37分あります




  だから 「観るたびに見えるものが ちがう」







  と   いいな







  という実験にもなっているかもしれません







  例えばうちの2歳の娘には いつか 大きくなったら

  この映画を眺めながら 多くのことを語り合える友人を

  一生のうちにひとりだけでもいい 見つけ出して欲しい

  などと思うわけです








  もしかすると百年前にも
  百年先にも つくろうと思えばつくれたもの
  しかし 誰もつくったことのないもの


  それらを産み出そうとする試みは


  「いましかできないこと」「自分にしかできないこと」
  これらを探す行為と 実は非常によく似たところがあるのかもしれません



  敢えてここで思い切り脱線するけれど

  例えば 3Dの立体ホログラムでこの映画の画像を空中(宙空)に投影し

  プロジェクターの大画面のような 壁みたいなホログラムをつくる
  そしてランウェイを次々モデルさんが歩き その壁の中から「ぬっ」と登場する
  そんなファッションショーがもしも あったなら

  僕だったら見に行きます


  (ザハ・ハディット氏がCHANELと そういうことしてくれないかな?)






  例えば雨の日に  外出をキャンセルして時間を持て余した時や

  なにか映画が見たいけれど 観たいものがすんなり出てこない時

  ひどく哀しいことがあったとき 悩むとき 落ち込んだとき
  何故かわからないけど沈んでいる時(へこみっぱなしの僕やきみみたいに)


  感情的にならずに 感傷的にならずに 誰かと リラックスして話したいとき

  大切なひとと 大切な話がしたい時などには


  MARIKOVの音楽を聴くか "andante"(Long ver.)を 観たらいいと思うよ!







  

      【※■=For Click to Link Movies】

      "andante"(long ver.)  [ Veoh ]   → [:title=■]

      "andante"(short ver.)  [YouTube]    →

      "andante"(long ver.) [YouTube]  →








  "andante" short ver. (1/2) by man &woman film.



  "andante" short ver. (2/2) by man & woman film.


        Copyright 2008 man & woman film. All Rights Reserved.




      ちなみに"andante"とは「At moderate, walking tempo」=「適度な 歩くようなはやさで」の意味です
      歩くような速さで 人類は進化し 一人の人間もまた 世界を拡大し 成長をする
      一人のなかの自問自答も  宇宙の膨張もまた そうかも







 *Link
   Eyes on Tibet |
     坂本龍一ラジオで反原発を熱く語る愛と苦悩の日記

     【2008年チベット動乱】目撃者の証言集チベット


      MSN産経ニュース
     6万人と連絡とれず 「四川省だけで死者1万人」中国大地震
     ダライ・ラマが哀悼の意 中国・四川大地震で
     「われわれ中国人には良心のかけらもないのか」聖火リレー続行に批判集中

触媒




             つよい感動や 幸福感とともに
             自分のちからで得た気づきなら
             人はずっと 忘れない


             つよい失望とともにあるものごとを
             人は できるだけうまく忘れようと努める生き物だから



             他の人はどうかわからないが

             僕はどうやらそう できている 


             一人きりで迷った道は よく覚えている




             そして少なくともそれは
             誰かに与えてもらおうとしてはいけない





             ないものは つくればいい






             では 感動とは 幸福とは なんだろうか

             喜び 笑い 楽しみ 高揚 敬愛 信頼 共感

             希望 発見 誕生 抱擁 成長 成熟 再生
             魂の救済 承認 賛美 解脱 超越

             求めること 求められること
             得ること 与えること








            しかし世界は  そればかりで満たされるということはない




             だとすれば 傷も 毒も 葛藤も 苦悩も 恥も

             衝突も障害も破壊も略奪も罪も罰も

             事故も 不幸も すべて  幸福の種子となりえまいか




             そうすることができたならば  生きやすくなりはすまいか




             ならば  誰かの幸福の触媒たらん  と願う行為は



             本当にそれが純粋なら

             害のないよう最善を尽くすのなら

             他に利することをこそ本分とするならば



             無邪気に許されてもよくはないか  というか




             人は 他者に対して 触媒でしかあり得ないのかもしれない



瞬発力



  Wynton Marsalis "Sparks" (iPod ad 2006)





  junichi yoda plays "Kid On The Mountain"







  うのくん2




瞬発力と 持久力   両方あれば言うことない

でも(?)瞬発力って まわりからは見えにくいような個人的な背景や水面下での持久性など
つまり 実は重厚長大で冗長ななにごとかに裏打ちされてはじめて その威力を増すものだよなと

Marikovのもうひとりの天才  依田くんの音を聴いて 思うのです



想像のなかでかろうじて追体験しようとするだけでも それはそれは気が遠くなるような
日々の研鑽が 「蓄積と洗練のサイクル」の継続があってこそ
はじめて  瞬間的にも  わっ とくる 音になる らしいなと



たぶん 僕はこの音を  5年後にも 10年後にも また 聴きたくなるのでしょう



両極の相互補完 というか 二律背反の両立 というか
こういうの なんて言えばいいんだろう?
こむずかしく言いたくないのに うまくいえない


例えば iPodのCMが 背景にあるAppleの哲学を「直感的にわかる」ように表現していると感じることは
そういう 僕にはうまく言えない諸々を なんともスマートに代弁してくれるように思うのでした 




それにしても  なんて  美しい指先だろう


えろいよ もはや



そして うのくんの顔芸  これもまた素晴らしい瞬発力なので
背後にとてつもない何かがあるのかも とか 笑
(念のため断っておくと 彼は音楽家としても勿論 素晴らしいひとです)




それに近い感覚で (瞬発力と持久力の関係とおなじように)

例えば  日常と 非日常も   両方あれば言うことない





「はじめに人ありき」とは よく言ったものです



 (だいぶ乱暴な飛躍)




要するに 音だけで 様々の何かを考えさせる表現力 というのはもう単純に すごい と思うし

そんな 彼らの人柄から すっ と出てくるような音を
ひとりでも多くの人に 聴いてみてほしくなったのでした



念のためつけくわえておくと
音楽の神秘性を それ以上 変に解体しようとするつもりはないです 



感じるものは 人それぞれでしょうが
感動を記録しておきたいという 備忘録的日記でした
飽和した感情を言葉にするのは むつかしいですね



*Link

Eyes on Tibet |
ミア・ファローが語るダルフールと北京五輪MSN産経ニュース

ダルフール紛争とは − wana kijiji

風が吹いた





                「かぜ つよぐね?」









   映画『サッドヴァケイション』(2008 青山真治 監督)には


   風がうつってるらしい   なんと



   鈍い僕は


   前にみて 気がつかなかったんだけど それってすごいことだ


   友人に指摘されて はじめて そうか ああ たしかに あそこで と



   しかし そういえば


   河瀬直美監督の『沙羅双樹(しゃらそうじゅ)』(2003)の


   冒頭の風も やばいよね



   色もかたちもないものに 感情をあたえるとは




http://youtube.com/watch?v=uc2oW5qb2vw
                          cibelle @Borders 091706 (2of2)



*Link
Eyes on Tibet |
 「世界最低の国、日本」に一言- かなろぐ


 「広場」としての Eyes on Tibet- アンカテ(Uncategorizablle Blog)


 For The People Of Tibet

「1+1」についての話




「ベーラははさみを忘れている」というフレーズが 頭から離れない。


 少なくとも一週間くらい前から そのフレーズがずっと頭の中をぐるぐる。
 そういうことって あるよね。


 
 この言葉は 大学時代の恩師である武田潔教授が
 ある講義のなかで教えて下さったことだったと記憶している。
 現宮崎県知事の東国原英夫氏も 同じ教室にいたんだよね。たしか。


 東国原氏は 当時 いつもウィンドブレーカーみたいなのを着て
 たまに頭にタオル巻いたりして よく大学に現れてたから すごく親近感というか

 「有名人なのに 気取ってなくて素敵」と思ったことを よく覚えてる。
 走ってたのかな。



 もう 5年以上も前の話。 6〜7年前かな。 



 ところで話はもとに戻って エイゼンシュテインのこの言葉
 「ベーラははさみを忘れている」。


 それが今 学生時代以来 数年ぶりに映画を自作することに
 もう一度関わってみようとしている
 っていう個人的な局面で、当時とはまた違った輝きをもって蘇ってきた。
 そういうことって あるよね。  ジャメビュ的ななにか。



 で 出典がうろ覚えだったので ドットコムしてみたわけです。

 すると いまの僕にとって かなりタイムリーに
 素晴らしいヒントをくれる文章に出遭ったのでした。

 こういうことって あるもんなんだなあ。と



 余談ですが 武田先生の講義で ロラン・バルト記号論について
 とてもとても熱く語った回があって(教授は本来 かなり柔和な御仁)
 その時のことを 今でもよく 思い出します。



 いやしかし 出来のわるい教え子ですみません 先生。


タルコフスキー岩尾先生全文−3
http://www.geocities.jp/hnoda0321/2maimeNo9page-Tarukofusuki-6.htm


たとえばエイゼンシュテインは論文「ベーラははさみを忘れている」(1926)のなかで、ベーラ・バラージュのカメラマン重視は「ワン・ショットの画面そのものの<スター化>」に陥ると批判して、次のように述べる。「映画の本質はワン・ショットの画面の中にではなく、画面の相互作用の中に探求されなければならない。バラージュは対物レンズ以外の、もう一つの決定的な<生産手段>―はさみを忘れている。映画における表現効果は―対比の結果である」(全集6巻 39頁キネマ旬報社)。またエイゼンシュテインは劇映画技法を否定してニュース映画のような「一台のカメラの急速な動き」が見届けたものだけに依拠するジガ・ヴェルトフの「映画眼キノグラース」をも批判して、観客に強く訴えかける芸術創出のために、モンタージュを駆使して「映画鉄拳キノクラーク」を振るわねばならないと言う(24−27頁)
 これに対してタルコフスキーは、「モンタージュは二つの概念を結合し新しい第三の意味を生み出すのだという、いわゆる<モンタージュ映画>の信奉者たちが提唱している理念は、映画の特質と完全に対立している」(B173)と批判する。彼はモンタージュを編集技法に限定して用いる。「モンタージュは時間で充たされたショットを結合するのであって、概念を結合するのではない」からだ。「モンタージュの中でいったい何が結合されるのか。それはショットの中を流れる時間そのものである」。ショットとショットの結合は、それらを通して流れる「時間の圧力」「時間の密度、強度」「変化しつつある時間の錆」によって行われる。「モンタージュは、ショットのなかの時間の圧力を考慮して断片を結合する手段なのだ」(B176)。
 それゆえモンタージュはそれぞれ固有な「監督のエクリチュール(書き方)」を現す。「モンタージュは時間で満たされたショットを結合し、映画という統一的な生きた有機体を構成するのである。その血管のなかでは、さまざまな圧力の時間がリズミカルに脈打ち、映画の生命を保証しているのである」(B173)。

「自分のフィルムを色々のやり方でモンタージュできる監督がいるとしたら、かなり浅薄な監督である。ベルイマンブレッソンフェリーニ、黒澤、アントニオーニのモンタージュならすぐわかる。彼らを取り違えたりすることは決してない。リズムの中に表現された彼らの時間の知覚がつねに不変のものだからだ」(B184)。


出典:タルコフスキー岩尾先生全文−3
    http://www.geocities.jp/hnoda0321/2maimeNo9page-Tarukofusuki-6.htm


この講義録 おもしろくて 勝手に懐かしくなっちゃって
ひさびさにまた大学に行ってみたくなりました。
もぐろかな。





そういえば 武田先生か梅本洋一先生が講義で
『「エクリチュール」というフランス語は「その作家の作家性を象徴する話法」という日本語に
訳してもいいんじゃないか とおっしゃっていた気がする。


他の教授のお言葉だったら ごめんなさい。もの覚えがわるくてすみません。

御二人の共訳の本(エリック・ロメール『美の味わい』)は
ずっとうちの本棚の 一番いいとこにあります。


武田先生の本も。(例えば映画理論講義―映像の理解と探究のために とか)




ところで また脱線しましたが 上に挙げた文章は この講義の最後部で


それよりも前段で岩本龍太郎先生は こういう前振りをしているわけです。


 タルコフスキーの遺産「1+1=1」

 初期の構想では数学教師であったドメニコの廃屋内をカメラがパンしながら写し出した「1+1=1」という謎めいた数式がある。
 これはトニーノ・グェッラが脚本参加したアントニオーニ『赤い砂漠』(1964年cf.A348)に現れる数式だが、タルコフスキーの映画思想を凝縮していると考えられる。


 「1+1=2」という現実的打算の数式や「1+1」が3にも4にもなるという景気の好い発展の数式と異なり、「1+1=1」は貧しく収縮的に受け取られるかもしれないが、そこには「1+1」が「1」というまとまりであること、世界がバラバラに発展して別のものに成り変ってゆく前に一つの世界であらねばならないこと、各人がカプセル化される分断の時代に人間が根底に於いて同一であることが含意されている。


 「1+1」が「3」になればあとは百万人でも動かしかねないだろう。全体の幸福を説く大審問官的言説を拒否してショスタコヴィチは次のように言う。
 「ヒューマニストを信じてはいけない、みなさん、予言者を信じてはいけない、有名人を信じてはいけない。彼らは二束三文で裏切るのだ。


 誠実に自分の仕事を果たしなさい、人々を侮辱せず、助けるように努力しなさい。一気に全人類を救済しようと努めてはいけない。
 まず、せめて一人の人間でも救うように試みなさい。これははるかに困難なことだ。ほかの人を傷つけないようにして一人の人間を助けるということは、たいへんむずかしいことである。信じられないほどむずかしい。それだからこそ全人類を救済したいという誘惑が出現するのである。


 だが、それにもかかわらず、その誘惑に乗ると、必然的に、人類の幸福のためには、少なくとも数億の人間を抹殺しなければならなくなる」(E358)。
 「1+1=1」は、「人類の幸福」を語る虚偽を見てしまった後で、さりとて訴えかけをやめず、そのつどの一人一人に語りかける姿勢を示している。
 「一滴にもう一滴を注いでも大きな一滴になるだけだ。二滴にはならぬ」とドメニコは廃屋の暗がりでボソボソ語る。
 このせりふは「1+1=1」の思想(と同時にタルコフスキーの水への執着)の言換えである。


出典(上と同じ):タルコフスキー岩尾先生全文−3
    http://www.geocities.jp/hnoda0321/2maimeNo9page-Tarukofusuki-6.htm




そして この講義は こう 閉じられるわけです。


 タルコフスキー映画のショット(カット)数は異様に少ない。エイゼンシュテイン『十月』(103分)の3225に比べて、『ストーカー』(161分)は142カットしかない(G143)
 冒頭部の警戒線突破場面に短いカットが集中し、あとは長回しばかりである。『ストーカー』を撮るとき、「映画全体をひとつのショットで撮ったかのようにしたかった」(B287)とタルコフスキーは語る。

 カメラを廻しっぱなしにして、ヒッチコックの『ロープ』(1948)のように上手に接合すれば、技術的に可能なことではある。
 しかし、タルコフスキーの言葉は単に技術の問題を越えて、彼の映画の夢、映画という夢、「1+1=1」という思想を凝縮しているように思われるのである。


出典(上と同じ):タルコフスキー岩尾先生全文−3
    http://www.geocities.jp/hnoda0321/2maimeNo9page-Tarukofusuki-6.htm





なるほど つまり
『「1+1」の数式は 映画の夢 人類幸福の夢の象徴である』
と言ってしまっていいわけか そうか そうかも それええやん というわけで。





実はこのブログの 「1+1」という名前は
このことを背景に決めました・・・というのは真っ赤な嘘で

 
もともと これほどまでには深い考えはなく
というか また別の根拠でつけた名前なんだけど
これ 採用させてもらっちゃおうかな と。



こういうことって あるみたいですね。まったく偶然だけど。




じゃあ そんなわけで これが由来 ということにしよう。決定(仮)。



「1+1=?」ということで はてなで日記をつけています。




*Link

英字幕版 できました。彼がこの作品の監督です。僕は 短髪です。
「字幕がついたら絵本みたいになったね」という 古い友人の感想は 最高にうれしかった。
http://profile.myspace.com/masateru



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